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2024.04.17

Dog Snapshot R 令和の犬景Vol.37 被災地に受け継がれる「犬景」

Dog Snapshot R 令和の犬景Vol.37 被災地に受け継がれる「犬景」

写真・文 内村コースケ

犬は太古より人類と一緒に歩んできました。令和の世でも、私たちの暮らしにさまざまな形で犬たちが溶け込んでいます。このフォトエッセイでは、犬がいる情景を通じて犬と暮らす我々の「今」を緩やかに見つめていきます。

「瓦礫の町」にひるがえる鯉のぼり

冒頭の写真は、今年2024年2月17日に、宮城県石巻市沿岸部の門脇町で撮影した「令和の犬景」だ。下の写真は、同じ場所の2011年5月2日の様子。まだ同年3月11日の東日本大震災の津波の爪痕が生々しい。海に面し、東に北上川が流れる門脇町は、津波被害が最も大きかった石巻市の中でも、特に大きな打撃を受けた。当時僕が訪れたのは、危急の救援活動が一段落したゴールデンウィーク中で、かろうじて道路上の瓦礫が撤去され、人や車が通れるようになったという状況だった。





その中で、ポツンと立つ鯉のぼりが目を引いた。瓦礫の町の中心に、目印のようにはためく4匹の鯉のぼり。僕にはそれが、かすかな希望のシンボルに見えた。吸い寄せられるようにそこへ向かうと、反対側から犬を連れた男性がやってきた。「人がいる所に犬あり」と言うが、犬がいるということは人の暮らしが戻ってきた証拠である。ここに来るまでに、市内各地である種絶望的な風景を見てきただけに、心底ホッとする「犬景」だった。



犬はどんな時でも人を笑顔にしてくれる

聞けば、その男性は石巻に帰省中で、生き延びた実家の犬の散歩をしながら、生まれ育った町の変わり果てた様子を見て回っていたという。

鯉のぼりの場所には立派なお地蔵さんが立っていたが、瓦礫の下にあるのか流されたのか、当時は全く面影がなかった。現在はこの通り元の位置に戻されて、犠牲になった人々の魂を優しく包みこんでいる。





上の現在の写真で、お地蔵さんの右側の背景に見える煙突は、日本製紙石巻工場のシンボルだ。この大工場も震災で大きな被害を受けたが、2012年8月に復興を遂げ、今もこうして元気に煙を吐いて地域の産業を支えている。お地蔵さんの左側の背景の高層建築は、震災後にできた復興住宅の一つ。もとの場所に家を再建できた人は少なく、一部の住民はこうしたマンション型の復興住宅で新たなスタートを切った。右端の白い建物は、津波と火災で大きな被害を受けた門脇小学校の校舎跡だ。

令和のこの場所で出会った冒頭の写真のコーギーは、すぐ近くに住む「まっちゃ」(1歳・オス)。散歩から帰ってきたところを、飼い主さんに声をかけてお地蔵さんの前で写真を撮らせてもらった。復興後にこの地に一戸建てを新築して移り住んできたとのことで、現在の門脇町はこうした新住民と震災前からの住民が一緒に暮らす町となっている。

ここに立つと、やはり13年前に同じ場所で出会った「被災地の犬」の純粋で力強い視線を思い出す。若い「まっちゃ」の澄んだ瞳にも、それは受け継がれているように感じられた。どんな時でも、いつの時代も、犬は人々を笑顔にしてくれる。



(左)被災地の鯉のぼりのたもとで出会った犬と、近くの実家に帰省中だった男性=2011年5月2日撮影(右)同じ場所で13年後に出会ったコーギーの「まっちゃ」と、復興後に近くに移り住んできた飼い主さん=2024年2月17日撮影

(左)被災地の鯉のぼりのたもとで出会った犬と、近くの実家に帰省中だった男性=2011年5月2日撮影(右)同じ場所で13年後に出会ったコーギーの「まっちゃ」と、復興後に近くに移り住んできた飼い主さん=2024年2月17日撮影



2011年当時の「瓦礫の町」(上)と、現在の様子(下)

2011年当時の「瓦礫の町」(上)と、現在の様子(下)

13年後に判明した鯉のぼりの由来

瓦礫の町にポツンと立っていた鯉のぼり(2011年5月)

瓦礫の町にポツンと立っていた鯉のぼり(2011年5月)



ところで、この鯉のぼりはどんな事情で立てられたのか。僕はこれまで、積極的にそれを追求することはあえてしてこなかった。なんとなく、立てた人の想いに立ち入るよりも、そっとしておいた方がいいように思えたからだ。それが今回の訪問で、偶然に、あっさりと解けてしまった。

今回の訪問でも13年前と同じように、まず門脇町一帯を見下ろす「日和山」の頂上に向かった。2011年にここに立った時、真っ先に目に留まったのが、瓦礫の町にポツンと立つ鯉のぼりだった。今、町の様子はガラリと変わっている。きれいに整備され、悲惨な被災地の様相は過去のものとなったが、海辺まで住宅が密集していたかつての町の賑わいとは裏腹に、空き地が目立つ。正直、町と言うには少しさみしい光景だ。



日和山から見下ろす門脇町。2011年5月(上)と2024年2月(下)

日和山から見下ろす門脇町。2011年5月(上)と2024年2月(下)



日和山から町に降りると、まずテニスコートがあり、その先が鯉のぼりがあった一帯だ。その一角に、木造のおしゃれなカフェがあった。ちょうど開店準備で外に出てきたマスターらしき人に、当時の鯉のぼりの写真を手に声をかける。「それは私の鯉のぼりですよ。当時、目印にと女房が立てたんです」。なんと、その本間英一さんこそが、鯉のぼりの持ち主だったのだ。

現在の町内会長でもある本間さんは、古くからこの地に居を構え、裏のテニスコートの管理もしていた。津波が去った後、すっかり町の様子は変わり、自分の家やテニスコートの場所すらよく分からなくなってしまった。そこで、瓦礫の中から掘り出した鯉のぼりを、目印になる場所に立てたのだという。



鯉のぼりの持ち主、本間英一さん。現在も被災した当時の自宅近くでカフェを営む。店内には震災当時自ら撮影した写真が多数貼られていた

鯉のぼりの持ち主、本間英一さん。現在も被災した当時の自宅近くでカフェを営む。店内には震災当時自ら撮影した写真が多数貼られていた



当時鯉のぼりの所で犬を連れた人に出会った話をすると、本間さんは少し目に涙を浮かべてこう語った。「門脇小学校まで流された車の1台は、知り合いのものです。その人は脱出して助かったのですが、同乗していた犬が犠牲になってしまいました。避難所では、大型犬と一緒の人が中に入れてもらえず玄関先で凍えながら過ごす姿を見ましたが、(今年1月1日の)能登半島地震でも同様に気の毒なことが多いようですね」。災害時、「人」が最優先なのは当然であろう。それを踏まえても、実際に被災した人の口からペットを思いやる言葉を聞けたのは、本当にありがたく、嬉しいことだった。

「あの鯉のぼりは、今もありますよ。5月になったら、毎年店先に飾っているんです」



震災当時鯉のぼりが立っていた場所のすぐそばに本間さんの店はある。5月には、今も同じ鯉のぼりを店先に張ったワイヤーに飾る

震災当時鯉のぼりが立っていた場所のすぐそばに本間さんの店はある。5月には、今も同じ鯉のぼりを店先に張ったワイヤーに飾る

後世に語り継ぐ



2011年5月当時の門脇小。校庭には焼けただれた車などが積み重なっていた

2011年5月当時の門脇小。校庭には焼けただれた車などが積み重なっていた



本間さんの話にも出てきた門脇小学校は、この地区のシンボル的存在だ。その白い校舎跡は、先のお地蔵さんの写真の背景にも写っている。震災当時は、校庭に次々と車や瓦礫が流されてきて、津波が去った後にはその多くが焼ける大火災が発生した。児童の大半は教員と住民の適切な避難誘導で助かったが、避難してきた近隣住民には犠牲者が出た。





現在の門脇小学校校舎。震災遺構として保存・公開されている

現在の門脇小学校校舎。震災遺構として保存・公開されている



被災後やむなく閉校となったが、校舎跡は現在、震災遺構として一般公開されている。津波に洗われて焼けただれた教室がそのまま保存され、展示室では当時の児童生徒、教員らの証言に触れることができる。2011年からの約10年間が復興期だとすれば、今は後世に被災体験を語り継ぐフェイズに入っていると言えよう。そんなことも感じた被災地再訪だった。

そして、今も変わらず課題として残る、被災ペットの扱いの向上を願わずにはいられない。最後に、門脇小学校に展示されていたこの詩を紹介したい。




「ねこ」

発災からしばらくして
庭に猫があらわれるようになった
名前は「ちゃちゃ」
子どもたちが名付けたその猫は
誰かに飼われていたのだろうか
人なつこくて おっとりして 愛らしい

被災後、飼い主と離れた動物がたくさんいた
いのちについて思う

生きているのは人間だけじゃないよね
動物も 昆虫も 草花も
生きるために生まれてくる
すべてが循環するから 人間が生きていられる

猫と子どもたちが無邪気に遊ぶ姿に
いのちの輝きを感じた
幸せを感じた
生きる力をもらっていた




震災前は住宅密集地だった門脇町の沿岸地域。現在、海辺には高い堤防が築かれ、住宅地の大部分は広い公園に再整備された。時代は「復興期」から、震災の経験を次世代に語り継ぐフェイズへと移り変わっている

震災前は住宅密集地だった門脇町の沿岸地域。現在、海辺には高い堤防が築かれ、住宅地の大部分は広い公園に再整備された。時代は「復興期」から、震災の経験を次世代に語り継ぐフェイズへと移り変わっている

■ 内村コースケ(写真家)

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒。中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験後、カメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「撮れて書ける」フォトジャーナリストとして、ペット・動物愛護問題、地方移住、海外ニュース、帰国子女教育などをテーマに撮影・執筆活動をしている。特にアイメイト(盲導犬)関係の撮影・取材に力を入れている。ライフワークはモノクロのストリート・スナップ。日本写真家協会(JPS)正会員。