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2026.03.30
Dog Snapshot R 令和の犬景Vol.60 「山の散歩道」を守る軽井沢のベアドッグ
写真・文 内村コースケ
犬は太古より人類と一緒に歩んできました。令和の世でも、私たちの暮らしにさまざまな形で犬たちが溶け込んでいます。このフォトエッセイでは、犬がいる情景を通じて、犬と暮らす我々の「今」を緩やかに見つめていきます。(最終回)
「クマ出没注意」に脅かされている山間部の「散歩道」
2021年3月に始まった本連載も、今回の第60回の区切りに最終回となりました。5年間の長きに渡り、令和の世を取りまく犬事情のみならず、私の愛犬の話題や個人的な思いにもお付き合いいただき、感謝の念に堪えません。
さまざまな話題を取り上げてきた中で、特に今後も引き続き考えていきたいテーマの一つに、現代日本における「犬の散歩道」があります。そこには、広く愛犬と一緒に歩む人生に横たわる「心の散歩道」も含みます。その道程で紡がれる愛の物語は、本連載のみならず、犬を撮り続けている写真家としての僕の永遠のテーマです。
一方、物理的な「散歩道」、つまり毎日の犬の散歩コースについて考えると、現代の日本ではさまざまな制約や問題が浮上してきます。それについて公園の散歩道の観点から取り上げたのが、第50回「 日本の公園にあふれる“犬禁止看板”に思うこと 」でした。人口密度が高く、犬がのびのびとできる空間に乏しい我が国では、犬の散歩場所として多くの人が真っ先に思いつく「公園」ですら、犬の入場を禁止している所が非常に多いのが現状です。「犬が苦手な人への配慮」と「一部の飼い主のマナー違反」がその主な理由ですが、ヨーロッパなど海外の状況も見てきた自分には、なおさら異様で行き過ぎた杓子定規な規制に見えるといった思いを、第50回では書かせていただきました。
「公園がダメなら自然の中を歩けばいい」。そう思って僕は、実際に15年前、都会から高原に移住しました。自分から世知辛い場所を離れるのが解決策の一つなのは確かだと思います。しかし、最近は山も安心して歩けません。都会に暮らす皆さんもニュースなどでご存知と思いますが、クマとの接触事故が多発しているからです。
公園もダメ、山もダメ。日本の散歩道の未来はどうなるのでしょう?本連載の最終章は、長野県・軽井沢エリアでクマの被害から私たちを守ってくれている「ベアドッグ」の取材を通して、「山の散歩道」の安全について考えてみました。
軽井沢で活躍するクマ追い犬
「軽井沢町野生動物対策報告会」会場に展示されていたツキノワグマの剥製
この原稿を書いている2026年3月現在、ほとんどのクマは冬眠中ですが、昨シーズンは特に、人がクマに襲われる人身事故のニュースが目立ちました。特に被害が多かった北海道や秋田県などでは、痛ましい死亡事故も多発し、非常事態と言える状況だったと思います。これまでクマによる人身事故がほとんどなかった軽井沢でも、残念ながら犬の散歩中の人と山菜採りの人がそれぞれ怪我をする事故が2件ありました。
事故が増えている理由には様々な要因が挙げられていますが、里山の荒廃により、人の領域と野生動物の領域の境界があいまいになってきた、という説に僕は説得力を感じます。日本には長く、人間の領域である町や村と野生動物が暮らす奥山の間に、人が炭・薪、材木などを採る場などとして管理してきた里山がありました。しかし、燃料が石炭や薪から石油などに置き換わり、さらに近年は人口減に伴う過疎化が進んで、里山と山間部の集落の荒廃が加速度的に進んでいます。一方、戦後の造林計画で、奥山の広葉樹中心の雑木林がクマなどの野生動物にとっては利用価値が薄い針葉樹林に置き換わっていきました。
それらの要素が複合的に絡み、里山や周縁部の集落が消滅して自然林に近い環境に戻り、クマたちにとっては奥山よりもむしろ魅力的な場になってきたのではないかと言われているのです。これまで人の領域とクマの領域の緩衝地帯になっていた里山の消滅により、両者が接触する機会が増えているとも言えるでしょう。
一方、ここ軽井沢は、里山に当たる部分に古くから別荘地があり、以前から人と野生動物が接触しやすい環境にありました。そのため、人と野生動物の共存をはかる意識が比較的高い地域柄と言えます。クマなどの野生動物を呼び寄せやすいゴミの捨て方をしないなどの住民意識を官民一体となって高める一方、クマを含むいわゆる害獣の殺処分を極力しない方針が取られてきました。そうした流れの中で導入されたのが、吠え立てるなどしてクマを奥山へ追い払うクマ追いのエキスパート、「ベアドッグ」なのです。
軽井沢で活躍しているベアドッグの「エルフ」
深夜のパトロールを経てベアドッグが出動
ハンドラーの井村さんとエルフ
軽井沢町のツキノワグマ対策事業は、クマを中心とした野生動物の保護活動を行っているNPO法人「ピッキオ」が受託して行っています。定期的なパトロールとベアドッグによる追い払いだけでなく、クマが開けることのできない「クマ対策ゴミ箱」の設置などが功を奏し、長年別荘地などの人間の活動領域での無事故が続いています。
ピッキオが日本で初めてベアドッグを導入したのは2004年のこと。現在は、ハンドラーの井村潤太さんと「エルフ」(8歳・メス)が、軽井沢町内をパトロールしています。犬種は、フィンランド原産の「カレリアン・ベアドッグ」。生まれ故郷のカレリア地方で主にクマ狩りに使われてきた猟犬で、まさにクマ追いの仕事にぴったりの犬種です。当初はアメリカのベアドッグ養成機関から輸入していましたが、ピッキオが2018年に日本で初めてカレリアン・ベアドッグの繁殖に成功。そのうちの1頭がエルフです。
受信機を手にパトロールし、発信器をつけたクマの行動を把握する
ピッキオでは、罠で捕獲したクマに発信器をつけ、行動を追跡しています。現在は40頭前後に発信器がついています。これは、軽井沢町内に出入りしているクマの数割と見積もられています。クマが冬眠から目覚め、活動が活発になるのは6月から10月。その期間には、井村さんらスタッフが発信器の信号を受信するアンテナを手に林道や別荘地をパトロールします。「野生のクマは本来、朝方や夕方に活発に活動するのですが、軽井沢のように自然の中に家があってそこに誘引物があるような地域では、クマも人の活動時間を避けて夜型になり、おもに深夜に山から降りてきます」と井村さん。そのため、パトロールは深夜に行われます。
そして、明け方までにクマが別荘地や学校の近くなど危険な地域にいることを把握した場合には、いよいよベアドッグの出番となります。クマがいる場所の近くまで行き、ハンドラーの指示のもと、激しく吠え立てます。「クマは学習能力が高い動物です。誘引物をきちんと管理したうえで、追い払いを繰り返すうちに『いてはいけない場所』だと理解し、そこには近づかなくなります」。ベアドッグは、クマに襲いかかるのではなく、一定の距離を保つよう訓練されているので、お互いに傷つけ合うような事態にはなりません。
クマが人里近くに現れたらベアドッグが出動する
ハンドラーの指示で吠えてクマを追い払う
「不用意にクマを刺激しない」「リードは必ず着用」
井村さんとエルフは、クマと適切な距離を保って身の安全を図りながら追い払います。でも、それはプロだからできること。私たち一般の飼い主が犬の散歩中にクマに出会ってしまったら、どうすれば良いのでしょう?昨年の軽井沢での接触事故の一つも、犬の散歩中の夫婦が襲われたケースでした。私たちの愛犬もクマの気配に気づいて知らせてくれたり、吠えて追い払ってくれれば良いのですが、クマに出会ったら固まってしてしまう子も多いようです。昨年のケースでは、林間の小道を散歩していたら犬が急に立ち止まってフリーズ。「どうしたのだろう?」と思っているうちに、横の薮からクマがのそっと出てきて飼い主さんが襲われて怪我を負ったのだといいます。
「その方たちは犬連れで熊鈴も持っていたとのことで、普通ならクマの方から逃げるようなシチュエーションだと思います。ただ、子熊を持っている親熊は排他的になりやすいので、その可能性が高いと思います。藪の中の子熊を守るために、相手を怯ませてから逃げるという選択をしたのでしょうか」と井村さんは言います。
そうしたケースもあるので、犬がいるから、熊鈴を持っているからと過信するのは禁物。出会ってしまったら、下手に刺激せず、ゆっくりと後退してその場を離れるのが鉄則です。そして、「それ以前に出会わないようにすることが大切です」と井村さん。「クマの気配を感じると興味津々でそちらの方へ行ってしまう犬も多いと思います。それで不用意にクマを刺激したり、驚いて飼い主の元へ逃げてきた犬をクマが追いかけてくる形で引き連れてきてしまうことも考えられます。そうした不慮の出会いを避けるためにも、山の中であっても、必ずリードを着用していただきたいです」。また、森の中を歩いていて犬が妙に吠えるなど普段と違う様子を見せたら、その場を離れるのが賢明だ。
これからも犬たちと「愛の散歩道」を歩みます
クマとの共存を目指す軽井沢町でも、繰り返し人家密集地に出現する個体などは、やむなく殺処分することがあります。「共存と言うと、同じ空間で一緒に仲良く、というイメージがあるかもしれませんが、やはりそれはなかなか難しいと思います。私たちが考える共存は、人とクマが適切な距離を保ち、不用意な接触がない状態です」。それは、まさにエルフら軽井沢のベアドッグがこの20年余りにわたってやってきたこと。それもまた、「野生」と私たちが、お互いを尊重するための一つの方法ではないでしょうか。
そう思うと、都会が世知辛いと山に移住してきた僕ですが、これまでは野生動物の領域に無闇に踏みこまないという配慮が足りなかったかもしれません。そのうえで、やはり人家が点在する里山のみならず、町の奥深くにまでクマが降りてくる現状はやはり困ります。エルフたちが頑張ってくれているおかけで、この軽井沢エリアは目の前の出没事案にかなり対処できている方だと思います。しかし、中長期的視点では、やはりクマが安心して暮らせる奥山環境の回復と里山の再生、あるいはそれに代わる緩衝地帯づくりなどの環境整備が必要なのではないかと思います。
そして、何よりも、動物をただ愛玩するのではなく、違いも理解してリスペクトすることが大事なのではないでしょうか。それが、僕がこの連載でも繰り返し言ってきた広い意味での「愛」の正体なのだと思います。それを、僕は犬という愛に満ちた存在に教えられてきました。
この連載が終わってからも、犬との愛を育む「散歩道」を追求していきます。既に、公園に犬を連れ込めない条例がある長野市を舞台に、散歩道をテーマにした写真展のプロジェクトにも着手しています。機会があれば、ぜひ、読者の皆さんともそんな場で再会できればと思います。
5年間本当にありがとうございました!
本連載にもしばしば登場したリタイア犬「マルコ」。一緒に歩んだ「散歩道」で、僕たち夫婦に大きな愛を教えてくれた
一部を除き原則的に犬が入れない長野市の公園で。このように「人と犬のつながり」を感じさせる“散歩道”を撮影するプロジェクトを始めています
■ 内村コースケ(写真家)
1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒。中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験後、カメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「撮れて書ける」フォトジャーナリストとして、ペット・動物愛護問題、地方移住、海外ニュース、帰国子女教育などをテーマに撮影・執筆活動をしている。特にアイメイト(盲導犬)関係の撮影・取材に力を入れている。ライフワークはモノクロのストリート・スナップ。日本写真家協会(JPS)正会員。本連載でも取り上げたアイメイトのリタイア犬との日々を綴った『リタイア犬日記〜3本脚の元アイメイト(盲導犬)の物語〜』で、大空出版「第5回日本写真絵本大賞」毎日小学生新聞賞受賞。同個展をソニーイメージングギャラリー銀座で開催した。


