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2026.02.05
Dog Snapshot R 令和の犬景Vol.58 国産盲導犬第1号誕生から70年 「チャンピイ」が歩いた街の今昔
写真・文 内村コースケ
犬は太古より人類と一緒に歩んできました。令和の世でも、私たちの暮らしにさまざまな形で犬たちが溶け込んでいます。このフォトエッセイでは、犬がいる情景を通じて犬と暮らす我々の「今」を緩やかに見つめていきます。
滋賀県彦根市 「国産盲導犬第1号」が初めて歩いた街
来年2027年に、国産盲導犬第1号「チャンピイ」誕生から70周年を迎えます。“盲導犬の父”塩屋賢一が、日本で初めて盲導犬の訓練法を確立したのが1949年のこと。賢一は、その後、当時大学生だった全盲の河相洌(かわい・きよし)さんの依頼で、河相さんの愛犬チャンピイ(オスのジャーマン・シェパード)を盲導犬として訓練します。そして、歩行指導を経て、河相さんがチャンピイと社会に出て実際に歩き始めたのが1957年の夏休み明けのことでした。ちなみに、チャンピイは事実上日本初の盲導犬と言えますが、戦時中にすでに訓練を終えた盲導犬をドイツから輸入した記録が残っているため、「国産盲導犬第1号」という言い方になっています。
河相さんとチャンピイの歩行指導は、河相さんの実家がある東京・大森で行われました。そして、「河相さんとチャンピイだけで交通量の多い道を歩き、隣町の郵便局で切手を買ってくる」という卒業試験をクリアした後、河相さんとチャンピイが暮らしたのが滋賀県彦根市でした。1957年当時、河相さんは、彦根市にある滋賀県立盲学校の教師だったのです。河相さんとチャンピイは、当時彦根城の隣にあった学校まで、市中心部の自宅からお堀端を通って毎日歩いて通っていました。チャンピイは授業中も教壇の脇で大人しく座ったり伏せたりしていて、生徒たちの人気者でした。その様子は新聞や雑誌でも報じられ、当時の写真が今も残っています。
先日、その“日本で盲導犬が初めて歩いた街”彦根を、初めて訪れる機会がありました。そこで、塩屋賢一が設立した盲導犬育成団体「(公財)アイメイト協会」が所蔵する1957年当時の写真を手に、ゆかりの場所を探訪してみました。当時の街並みは確かに大きく変わっていましたが、面影はそこかしこに残っていました。今回は、1957年当時の写真と現在の写真を見比べながら、河相さんとチャンピイの足跡を辿りたいと思います。
*1 <トップ写真>(左)彦根城の堀端を歩く河相さんとチャンピイ(1957年ごろ)、現在の彦根城の堀沿いの道(2026年1月)
盲学校の教室で(1957年ごろ)
現在の滋賀県立盲学校。1967年に彦根城そばから市内南部に移転した(2026年1月)
彦根城の堀端の通勤路
河相さんが教鞭を執っていた時代に盲学校があったことを示す市立図書館前の石碑(2026年1月)
「彦根の生徒と」という河相さんの家族のメモ書きがある記念写真。背景は当時の校舎か(1957年ごろ)
彦根に着くとまず、河相さんが教鞭を執っていた滋賀県立盲学校に向かいました。イメージよりも郊外にあって、校舎も写真に残っている木造ではなく、鉄筋コンクリート製でした。教頭先生に来校の意図を伝えると、やはり今でも河相さんとチャンピイのことはよく知られている様子。そして、70年前当時の校舎は、現在は市立図書館が建っている彦根城の堀端にあったと教えてくださりました。図書館へ行くと、「滋賀県立盲学校 昭和九年度から四十一年度まで(ここ)尾末町にて学ぶ」と刻まれた石碑が確かに立っていました。
図書館のすぐ裏は、彦根城のお堀です。当時、河相さんとチャンピイは堀沿いの道を通って通勤していました。今も、堀端を歩く河相さんとチャンピイの写真が何枚か残っていますが、実際にその場に立ってみると、彦根城は国宝に指定されているからでしょう、当時の景観がよく保存されていました。周囲には新しい住宅などもありますが、風景は大きくは変わってはいないようです。
たとえば、当時の写真をみると掘沿いに柵がない所が多いのですが、それは今でも変わりません。そこを毎日歩いていたわけですから、チャンピイの危険回避能力によって安全な歩行が担保されていたことが伺えます。ちなみに、アイメイト使用者にアイメイトを持とうと思ったきっかけを聞くと、白杖で歩いていた頃に誤って水路や田んぼに落ちてしまったことを挙げる方が少なくないのですが、アイメイト歩行ではそのような事故の話は聞いたことがありません。
彦根城の堀端を歩く河相さんとチャンピイ(1957年ごろ)
現在の堀端の道。昔と変わらず柵がない所も多い(2026年1月)
「さようなら、チャンピイ」の並木道
また、彦根城の堀端には、桜や松の並木があります。それを見て、こんなエピソードを思い出しました。
河相さんは、チャンピイとの彦根での暮らしが始まると、東京の塩屋賢一のもとへ「チャンピイ通信」と題した手紙を送り、日々の生活ぶりを伝え、時には歩行や生活で困ったことについてアドバイスを求めました。賢一は、時に彦根に出向いてそれに応えました。今で言うフォローアップですね。やがて賢一は頃合いを見計らい、河相さんに黙って彦根に行き、気づかれないようにこっそり様子を見ることにしました。その際、賢一は通勤路の木の陰に隠れて待ち構えていたそうです。やがてやってきたチャンピイは賢一に気づいたものの、チラッと見ただけで颯爽と通り過ぎていきました。
この時に、賢一は「さようなら、チャンピイ。河相さんを頼んだぞ」と万感の思いを抱いたといいます。訓練の日々では、自ら目隠しをして寝食を共にし、延べ何百キロにわたって町を歩いた仲です。でも、現在の歩行指導員もそうですが、訓練を担当した犬であっても、最終的には自分の手を離れて使用者のパートナーとなることを目標にしています。この時の賢一の「さようなら」は、名実ともに河相さんのパートナーとなったチャンピイを祝福する言葉だと僕は思います。もちろん、全力で愛情を注いだチャンピイに対する惜別の念もあったでしょう。チャンピイも賢一のことを忘れたわけではなかったでしょう。しかし、だからこそ、お互いに胸を張って「さようなら」が言えたのだと思います。
彦根城の堀沿いの桜並木(上)と松並木。塩屋賢一は70年前、こんな木の陰に隠れてチャンピイに「さようなら」の言葉を送ったのだろうか(2026年1月)
塩屋賢一(右)と河相さん、チャンピイ。左は河相さんの妻・玲子さん(1957年ごろ)
当時は盲導犬も貨物扱い
次に、彦根城から10分ほど歩いた所にあるJR彦根駅に向かいました。2022年の塩屋隆男・アイメイト協会代表理事(賢一の長男)との対談で、河相さんはチャンピイが彦根に到着した時の様子をこう語っています。
「(東京での歩行指導を修了して)夏休みが終わると、彦根へ帰らなきゃならない。すると塩屋さんは『私も彦根へ行く。彦根でもう3日間歩きましょう』と。それで一緒の汽車に乗って帰りました。ところがチャンピイは箱詰め。彦根の駅で降りるとチャンピイが箱から出て来て、バケツの水を飲んだの。暑い時でしたから、それはもう、とっても喜んで飛びついてくれてね」
視覚障害者の目の役割を果たす盲導犬は、現在では使用者の体の一部であるとして、公共交通機関の自由乗車や店舗などへの入店が法律で認められています。ですが、盲導犬の存在すらほとんどの人が知らなかった当時は、チャンピイは木箱に入れられて貨物として運ばれたのです。彦根駅到着時の写真は残っていませんが、河相さんの次の赴任地の静岡県の浜松駅に着いた時の写真があります。やはり木箱から出てきたチャンピイ。河相さんと再会してとっても嬉しそうですね。
河相さんの次の赴任地、浜松駅に降り立ったチャンピイ(1960年)
現在のJR彦根駅。1957年当時は木造の駅舎だった(2026年1月)
チャンピイが降り立った彦根駅下りホーム(2026年1月)
街角に今も残る70年前の面影
駅とお城の間のエリアが、昔からの彦根の中心市街地です。1970年代から 1980年代にかけて再開発が進み、河相さんとチャンピイの時代の町並みは残ってはいませんが、令和の今の目からすれば昭和感溢れる商店街といった趣です。1970年生まれの僕には、案外昔の面影が残っているようにも感じられました。
いくつかの写真を手に、撮影地を探してみました。まず気になったのは、「自転車・手荷物預かり所」という看板が見える街角を歩く河相さんたちの写真です。おそらく当時の駅前でしょう。駅前広場の一角にある観光案内所で尋ねると、「確かに昔、このあたりに手荷物預かり所があったような気がする」とのことでした。
彦根駅前付近と思われる街角を歩く河相さんとチャンピイ(1957年ごろ)
次に確認したのは、路地の先に「若林運動具店」の看板が見える下の写真。聞き込みをするうちに、中央町という商店街の一角に、「若林スポーツ」の名で近年まで営業していた運動具店があったとのこと。その跡地は駐車場と別の店になっていましたが、当時の写真の左側に写っている土壁が今も変わらない姿で残っていました。また、写真では、藁で作った何かをおばさんが燃やしている脇を河相さんたちが通り抜けているのですが、実際に行ってみるとその右後方にお寺がありました。一見ちょっとシュールな写真なんですが、お寺関係のものを燃やしていると思えば、なるほどと思います。
上の写真(1957年ごろ)の路地の現在の様子(2026年1月)。左の土壁に面影がはっきりと残る。
少し下がると、土壁の向かいに当時から変わっていないであろうお寺があるのが分かる(2026年1月)
車が通り過ぎるのを待つ河相さんとチャンピイの下の写真も、ほぼ場所を特定できました。背景の「風月堂」という和菓子屋さんが、中央町に隣接する銀座町商店街で今も営業していました。お店の人に写真を見せると、今は当時あった場所の隣接地に移転しているとのこと。元の場所はコンビニエンスストアになっていて、河相さんたちが渡ろうとしているあたりは十字路の一角のようです。そこに今は、信号機つきの横断歩道があります。主要交差点に横断歩道もないような当時の交通事情の中でも、事故なく歩いた河相さんとチャンピイの能力には本当に感心します。
上の写真(1957年ごろ)の場所を同様の角度から撮影。現在は横断歩道がある(2026年1月)。
河相さんとチャンピイが立っていた方向から見た現在の銀座町交差点。旧街道筋の要衝で、当時から交通量の多い交差点だったようだ(2026年1月)
昔も今も変わらぬ人と犬の絆
河相洌さんは、1960年に彦根を離れ、2024年1月に96歳で亡くなるまで静岡県浜松市に暮らしました。チャンピイの後、盲導犬からアイメイトと呼び名が変わってからも、4代目のロイドを2008年に引退させるまでアイメイト歩行を続けました。
僕は、晩年の河相さんに3回お会いしていますが、とても知的で品のいい、そして、芯に強い意志をお持ちの“本物の知識人”の趣がある方でした。塩屋賢一と河相洌というパイオニアが出会わなければ、日本のアイメイト・盲導犬の歴史は違ったものになっていたに違いありません。河相さんとチャンピイに続き、これまでに1480組余のアイメイトペアが誕生しています。
今回、“日本で初めて盲導犬ペアが歩いた街”を歩いてみて、「変わっているようで変わっていない」という感想を抱きました。そして、視覚に障害があっても自分の力で歩きたいというアイメイト使用者の皆さんの自立心と、それを手助けする犬の愛はいつの時代も変わらないということを改めて実感しました。
街歩きを終えて旧盲学校の図書館前に戻ってくると、散歩中の犬たちと飼い主さんたちが笑顔であいさつを交わしていた(2026年1月)
■ 内村コースケ(写真家)
1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒。中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験後、カメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「撮れて書ける」フォトジャーナリストとして、ペット・動物愛護問題、地方移住、海外ニュース、帰国子女教育などをテーマに撮影・執筆活動をしている。特にアイメイト(盲導犬)関係の撮影・取材に力を入れている。ライフワークはモノクロのストリート・スナップ。日本写真家協会(JPS)正会員。本連載でも取り上げたアイメイトのリタイア犬との日々を綴った『リタイア犬日記〜3本脚の元アイメイト(盲導犬)の物語〜』で、大空出版「第5回日本写真絵本大賞」毎日小学生新聞賞受賞。同個展をソニーイメージングギャラリー銀座で開催した。


