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2022.08.29

鎌倉殿に犬がいた?武士の世の幕開けと犬たちのお話。【#selfishな歴史犬聞録】

鎌倉殿に犬がいた?武士の世の幕開けと犬たちのお話。【#selfishな歴史犬聞録】

華やかな宮廷文化が花開いた平安時代が終わり、実質的な支配階級が武士へと移り変わった鎌倉時代。
学校の授業などではあまり詳しく解説されることがなく、「源氏と平氏が大きな戦をして源氏が勝利した」「その後鎌倉に幕府が開かれた」「御成敗式目というルールができた」といった大まかな出来事しか印象に残っていない、という方も多いのではないでしょうか。

しかし、この文化・政治の中心地が京都から鎌倉へと徐々に移行したこの時代に興味を持つ方が増えつつあるそうです。
人類の歴史の傍らには常に犬がいる、というのは決まっています。(!)つまり、初期の鎌倉時代にもきっと犬に関するエピソードが残っているはず……ということで、今回も犬と歴史を愛するスタッフが鎌倉殿と犬のお話、そして中世の日本の犬の育て方にまつわるエピソードをご紹介します。

鎌倉殿の犬当番。

公家や天皇家とそれ以外、という構造だったそれ以前から飛び出すような形で誕生した鎌倉幕府。武士が実質的な政治権力を得た日本での初めての例とされています。
征夷大将軍の官職名自体は奈良時代から存在していましたが、源頼朝が拝したことに端を発し、それ以来武士の棟梁・ひいては日本の最高権力者の異名として、(省略した「将軍」として)代々江戸時代の終焉まで日本で広く用いられることになります。

しかしこの征夷大将軍、という呼び名は普段使いの呼称としては一般的ではなく、当時の御家人たちは鎌倉の武士を中心とした政治機構そのもの、そしてそのトップである将軍個人の代名詞という2つで"鎌倉殿"という言葉が使用されていました。
今回は、そんな鎌倉殿と"犬"に関するエピソードをご紹介します。
『吾妻鏡』によると、建仁元年(1201)九月にこんな記述があります。以下、現代語訳です。

 

左金吾さま(源頼家)が自分の犬の飼い口(食事などの世話)を行う人をお定めになられました。毎日、当番を決められて順番に御家人が担当することになったのです。
選ばれたのは皆、狩りの心得がある者ばかりでした。
犬のお世話当番の順番決めのために、中庭に石壺を置いて札を入れて、平等に組み合わせと順番を決めました。(以下略)

――『吾妻鏡』第十七巻 建仁元年辛酉(1201)九月大より

 


さて、ここでは二代将軍である源頼家が犬と暮らしていることが記されています。しかしその世話を御家人に任せることにしたようで、くじ引き(のようなもの)でその当番を決定していったとのことです。
ちなみに、この時決まった犬のお世話当番には、比企や工藤などといった良く知られた御家人たちも選ばれています。

この時の選考基準(?)として、「狩りの心得がある者」があったという記述が残っています。これは日本の犬たちが狩猟と深く結びついた存在だったことが関係しています。

なぜ犬の世話は狩りが得意な御家人でなくてはならなかったのか?

頼家さまの大切な犬の世話をするのですから、それはそれは気を遣う必要があったのは当然として、世話当番はなぜ「狩りが得意な者」である必要があったのでしょうか。
現代の私たちの感覚で言えば、「犬が好きな御家人」とか「犬をしつけるのが上手い御家人」という方が合っていそうな気がしてしまいますよね。

犬の世話を行う人の条件として「狩りが得意」ということが必須だった理由は大きく分けて3つあったと考えられます。

 

■犬を狩りのために育てる必要があったから

まず、当時の武士たちにとって猟は、自分の武功を挙げる非常に重要な舞台でもありました。
源頼朝によって平家、木曾義仲、奥州藤原氏と義経などを相手取った全国的な戦は終わり、御家人たちは武功を挙げる機会がめっきりと減っていました。
そしてそれは、二代目の鎌倉殿でも同じこと。父とは違い実績がない頼家にとって、せめて狩りの場ではしっかりと武功を挙げて威厳を見せつける必要があったのです。
そのためには、猟をサポートする犬たちの存在は不可欠。実際に猟を得意とする者のところへ自分の犬を弟子入りさせるような感覚だったのかもしれませんね。

頼朝暗殺計画でもあったという説がある"富士の巻狩り"は吾妻鏡の中でもとくに有名なエピソードですが、巻狩りでも犬たちはたくさん活躍していたはずです。
獲物を狩り場に追い込んだり、隠れた獲物に吠えかかり武士たちが狩りやすいように誘導するのが当時の犬の主な仕事でした。

こういった猟犬として育てる必要があったので、普段から猟に出て実地訓練を積ませることができるよう、猟が得意な御家人に自分の犬を任せたという側面は大きいはずです。

 

■日本の猟師はドッグトレーナーでもあったから

実は、日本では伝統的に猟師は現代で言うところのドッグトレーナーとしての役割を担っていたことが分かっています。
鎌倉時代から戦国、江戸時代にかけて蓄積された犬に関する知識を記した「犬の書」という本が現存しているのですが、そこには細かく犬たちのしつけや基本のトレーニングの方法までが項目ごとに記されています。
この「犬の書」は猟師たちが用いていたマニュアルのようなもので、そこには犬の困った行動に対してのしつけ方も書いてあったりします。

例えば「勝手に出歩いて迷子になってしまわないようにするためにはどう教えれば良いか」だとか「獲物や飼い主の持ち物を噛んでしまわないようにするためには」といった困りごとに対する対処法なども記録されています。
もちろん、相当昔の書物ですので、しつけの内容は現代の私たちの感覚からすれば的外れだったり、不適切なものも多くあります。
しかし、他にここまで詳しく犬のしつけやトレーニングについて詳しく残っている書物はほとんどなく、狩猟にかかわる人間が犬のしつけの専門家として見られていた可能性が高いのです。

 

■獣医学の知識が豊富な人々がいたから

日本では長く獣医学というものはあまり発展してこなかったという側面があります。もちろん、荷物を運んだり人を運ぶ「馬」はとても貴重な財産でもありましたから、優れた馬を管理するための医学はある程度成立していたと考えられています。

一方で、犬の怪我や病気はというと……残念ながらほとんど治療されることはなかったようです。
しかし、例外的に犬を生かし、健康的に過ごしてもらうために尽力した人々もいました。
それは、やっぱり猟師たちでした。

厳しいトレーニングを積ませ、立派に育てた犬たちでも、猟に出た時に怪我をすることもありましたし、病気になってしまうこともありました。
猟師にとって犬は暮らしを豊かにしてくれる大切な相棒であり、子どもでもあったと思います。あまり歴史の表舞台に出てくることはありませんが、日本の猟師たちは大切に育てた犬に少しでも長く健康的に過ごしてもらうための「犬の医学」を密かに伝承していたのです。
誰よりも犬の病気や怪我に詳しいのが、猟師たち、そして猟師と強いつながりを持っていたのが狩りを得意とするという御家人たちだったのでしょう。ある意味、狩りを得意とする御家人たちは鎌倉幕府の中で最も犬にも詳しい人、でもあったのです。

『犬の書』には、犬の食欲不振や皮膚病、嘔吐など現代の私たちも悩むことがある症状に対する薬の作り方や、食事の与え方なども記されています。
犬を健康的に育てるための知識が詰まっていたのが、猟の場だったのです。

 

おわりに

今回は、鎌倉時代の犬事情の一端として、『吾妻鏡』の記述とそれにまつわる情報についてご紹介いたしました。
二代将軍・源頼家は、鎌倉殿に就任後は蹴鞠に明け暮れて政務を怠るような人物であった、とも伝わっていますが、犬に関してはきちんと「誰に世話を任せればよい犬に育つか」を考えていたとも見えますね。
もちろん、これは歴史の一側面であり、犬好きが考察したゆえの偏りもあるかと思いますが、鎌倉殿と犬のちょっとした関わりを知っていただけると嬉しいです。